一年の区切り

一年を振り返ることもなく年が明けてしまったので、正月休みを利用して少し更新してみようと思う。
まずは昨年一年を振り返って、どうだったか?と言うと、「深く考えることを全然してなかった」という印象が一番強いなあ。 原因は幾つかあるんだけど、前のエントリで挙げたTwitterがひとつ。それから、本格的に腰を壊したので体調不良のために活動時間が限定されていたせいもある。前年(一昨年)には仕事の都合でほぼ週一で出歩いていたが、それが無くなって歩きながら考える時間が減ったのも大きいな。簡単に言うと前より不健康になったね。
それ以外には、情報源の取捨選択というか情報収集にかけるリソース配分を間違えていたかな?という気はする。自分なりに消化したいテーマを見つけたらエントリにしようかと思っているのだけど、気力が足りなくて記事未満のメモとして残したテーマの数自体が減ってるし。自分で情報処理をしないから思考能力も衰えて収集感度も鈍る、という悪循環の自覚があるので「そろそろ脱却したい」というのが年頭所感てところかな。
考えなくなる、というか思考をめんどくさがるようになると、如実に「見たいものしか見なくなる」傾向が現れるのを実感していたところでブログの下書きを眺めていたら、下記記事について何か言いたげな痕跡があった。
 
興味ある情報しか拾わない現代人は、知識レベルが下がっている?
http://slashdot.jp/articles/10/01/31/0246230.shtml
 
あー、たしかに今は実感として知識レベルが下がってる感じ。むしろ知能レベルが低下した気もw

スラドの記事は知識レベルという表現で色々誤解を招いている気がするけど、同一のリソースでアクセスできる情報の絶対量が増えたことと、社会生活基盤が比較的安定しているため個人にとっての生活上の必須情報が減少していることにより、情報アクセスにおいて視野狭窄が発生しているということだよね。
スラドjpのやりとりでは、「見たいものが見れればいいじゃん」と「共通言語の喪失に危機感を覚える」の微妙に噛み合わない二つの意見が主流だったみたいですが、実際にこういう現象が起きているらしいとして何が問題なんだろう?
一つは上で挙がっている「共通言語の喪失」。要はリテラシーの範疇も含めたマナーが共有されないということですね。これは教育の問題でもあって、ネットが当たり前に存在する社会におけるコミュニケーションマナーは全員が共有する必要があると思うのですよ。ネット全体の大きさを視覚化出来れば良いのだけどねぇ。
もう一つは、「利己的な行動を動機づけるポジティブフィードバックがかかりやすい」というのが問題かなと思う。自分が正しいと思うものしか見ないで、利己的な行為が許容される狭い世界だけを認識して、その中での最適解を求める人が増えるのはちょっと面倒だなぁという気はする。利害対立が起きたときに低レベルのコミュニケーションで問題解決を図ろうとしそうだからw
ちなみに最低レベルのコミュニケーションは食うか食われるかの世界ね。
なんだかとっても解決が面倒な気がしてきたけど、面倒って感じることは、たぶんやらなきゃ後でもっと大変なことになる事象なのですよ。経験的に。
やあ、新春から難問だねー。
もう少し真面目に考察して、どうにかすることを考えたほうが良いのだろーか。