これが僕らの日常

「『ありえない』なんてことはありえない。」
最近の人はいい事を言いますね。
現実は常に想像を越える、ということを正に今体験しているわけです。
我々が考えないようにしてるイヤな予感は、それを上回る現象として具現化するでしょうね。
それすらも、乗り越えた先を目指すことが私達が今ここに生きている理由。私達って誰だろね。
勝利条件は生き続けること。タイムリミットは八千代。わかりやすいでしょ?
ルールは断片的にしか示されていないけど、その一部は科学の名の下に紐解かれつつある。弱い能力をもつ個体を含めた総体として考え行動する力を補うためにネットという技術を持つに至った頃合いで、こういうイベントが起きるのはゲームバランスとして過剰演出過ぎませんか?
原子力の利用や遺伝子操作が当たり前になりつつあるタイミングで足元さらうような事故が起きるのって、狙い過ぎだと思うんだけど。
きっと宇宙進出するときにも同じような難題が発生するんだ。それこそSFやアニメの斜め上を行くような現象が起きて。
そういう事が当たり前というメンタルで生きていく時代なんだと理解するしかない。2001年宇宙の旅ではないけど、人は常に生きる意志を試されていると思うんだ。だから俺たちは見えざるゲームデザイナーの裏をかくのに躍起になるのさ。
そのためなら命をかける価値がある。そういうゲームをプレイ中なう。

最後に。
非常時対応にあたっている全ての人とそれを支える方々へ敬意と感謝を表します。

中休み

勤め先が変わる。変えるというべきかな。というタイミングで、何か残しておかないといけない気がしたので。
 
人より長い学生時代の最後、大学院生として過ごすことが決まった時に自分の中でちょっとした覚悟をした。漠然とだけど、年齢的に大人として自覚を持つ頃合いだという気持ちがあったので、自分の言動に責任を持てるようになろうと言う事を考えていた。具体的ば方法論は持っていなかったのだけど、約束の履行とか後始末をするとか、人任せにしないとか、今まで子供だから大目に見られた点を何とかしないと「人並み」になれないという感覚があったので、今後は改めていこうという程度の話。
それまでの学生生活といえば、時を忘れて無節操に遊ぶのが当たり前というお気楽な日々を延々と続けていたのだが、最後くらいは本分である学業を優先させないといけないな。と、ようやく勉強らしいことをするようになった。
タイムスケール的には、まともな人の学生生活を2倍希釈したような感じになるかもな。
勉めて強いるのは苦手だったけど学ぶのは好きだったから、学業を優先することは苦にならなかった。
環境の変化にそれなりに適応してなんとかなる感触を得たけど、卒業後に関しては何のビジョンも知識もなかったので教授に今の会社を紹介してもらい、流されるままに華麗にコネ就職。
就職してからは不慣れなことは多かったけど、それまでの覚悟の中でなんとかなる範囲だったから特に困ることはなかった。財布の管理が杜撰という点を除けば、そこそこ社会人としてやって行けるなと思いつつ、相変わらず将来像的なものを持ち合わせていなかったので、仕事以外に向かうものが見つけられなくてネトゲに走ったりしていた。
でもまぁ、基本的に意識が外側に向かっているかな。浪人して情報系から環境系に興味が移ったみたいに、注目を集めるモノの周りはどうなってるか?という視点で見てしまうから、一つの対象に興味を持ち続けるのが難しいし、飽きっぽいw
仕事をしているうちに、それまで見えてなかった世の中の仕組みが理解できるようになって、朧気に自分の立ち位置とか、役割とか考えるようになって、でも「自分はこれで食べていくんだ」という感触はあんまり得られなくて、それでも「常にあれこれ試行錯誤し続ける」という生き方もあり得るということを教えられたりした。
あれこれ考えても、『今生きている』以上の答えは出てこなくて、別に答えすら必要ない気もして、「なるようになる」と「やりたいようにやる」の狭間で生きて行くのかな。という感じ。
つまり、今の時点では生き方を変えるほどの転機だという気はしないってことだなw

傍から眺めたおせち

岡目八目って言うじゃない。
正月早々ネットで騒ぎになっていたおせちの話を外野から眺めていたのだけど、当事者が利益目的で起こした類の事件じゃないらしいということが引っかかっていて、小田嶋 隆さんの記事と銀河ヒッチハイクガイドを読んでいるうちに、これって騒動そのものが利用されているのかなぁと思い至った次第。
ニュースをつまみ食いしたレベルの立ち位置から見えてくるのは「グルーポンという名前に傷がついた」位のものであって、話の中で利に聡いプレイヤーの名前も見かけたとなれば、騒動そのものが仕掛けられたものか、偶発的な事故につけ込んで競合しているプレイヤーが煽っているというような図式を当てはめないと納まりが悪い。「犠牲になったのだ」的な。
マスコミも手をつけたとなれば、既得権に利する構図が生じてるのは間違いなんじゃないかな。
2chに日本人は食べ物絡みの時だけ本気で怒るという内容のコピペがあったけど、おせちをこういう騒ぎのネタにする辺り、計算ずくな雰囲気があるのがイヤラシイなぁ。これは事件の中身を追っても何も出てこなくて、後から見たら、隣でのうのうと別件が進行していましたというオチなんじゃないか。もっとも、ネットの世界では2ヶ月も経てばそんなこと覚えてる人はいないという感覚なので、検証もされないんだろうけど。
 
正月にだらだら過ごしてたら少し生活のペースを取り戻せたみたいで。
やっぱり生き急ぐのって性に合わねーわw

一年の区切り

一年を振り返ることもなく年が明けてしまったので、正月休みを利用して少し更新してみようと思う。
まずは昨年一年を振り返って、どうだったか?と言うと、「深く考えることを全然してなかった」という印象が一番強いなあ。 原因は幾つかあるんだけど、前のエントリで挙げたTwitterがひとつ。それから、本格的に腰を壊したので体調不良のために活動時間が限定されていたせいもある。前年(一昨年)には仕事の都合でほぼ週一で出歩いていたが、それが無くなって歩きながら考える時間が減ったのも大きいな。簡単に言うと前より不健康になったね。
それ以外には、情報源の取捨選択というか情報収集にかけるリソース配分を間違えていたかな?という気はする。自分なりに消化したいテーマを見つけたらエントリにしようかと思っているのだけど、気力が足りなくて記事未満のメモとして残したテーマの数自体が減ってるし。自分で情報処理をしないから思考能力も衰えて収集感度も鈍る、という悪循環の自覚があるので「そろそろ脱却したい」というのが年頭所感てところかな。
考えなくなる、というか思考をめんどくさがるようになると、如実に「見たいものしか見なくなる」傾向が現れるのを実感していたところでブログの下書きを眺めていたら、下記記事について何か言いたげな痕跡があった。
 
興味ある情報しか拾わない現代人は、知識レベルが下がっている?
http://slashdot.jp/articles/10/01/31/0246230.shtml
 
あー、たしかに今は実感として知識レベルが下がってる感じ。むしろ知能レベルが低下した気もw

スラドの記事は知識レベルという表現で色々誤解を招いている気がするけど、同一のリソースでアクセスできる情報の絶対量が増えたことと、社会生活基盤が比較的安定しているため個人にとっての生活上の必須情報が減少していることにより、情報アクセスにおいて視野狭窄が発生しているということだよね。
スラドjpのやりとりでは、「見たいものが見れればいいじゃん」と「共通言語の喪失に危機感を覚える」の微妙に噛み合わない二つの意見が主流だったみたいですが、実際にこういう現象が起きているらしいとして何が問題なんだろう?
一つは上で挙がっている「共通言語の喪失」。要はリテラシーの範疇も含めたマナーが共有されないということですね。これは教育の問題でもあって、ネットが当たり前に存在する社会におけるコミュニケーションマナーは全員が共有する必要があると思うのですよ。ネット全体の大きさを視覚化出来れば良いのだけどねぇ。
もう一つは、「利己的な行動を動機づけるポジティブフィードバックがかかりやすい」というのが問題かなと思う。自分が正しいと思うものしか見ないで、利己的な行為が許容される狭い世界だけを認識して、その中での最適解を求める人が増えるのはちょっと面倒だなぁという気はする。利害対立が起きたときに低レベルのコミュニケーションで問題解決を図ろうとしそうだからw
ちなみに最低レベルのコミュニケーションは食うか食われるかの世界ね。
なんだかとっても解決が面倒な気がしてきたけど、面倒って感じることは、たぶんやらなきゃ後でもっと大変なことになる事象なのですよ。経験的に。
やあ、新春から難問だねー。
もう少し真面目に考察して、どうにかすることを考えたほうが良いのだろーか。

いまどうしてる?

はいはい、Twitterのせい、Twitterのせい。
単に吐き出したいだけなら、べつにネットである必要はないのだ。そのための日記帳は別にある。
けれども、世に問うとまでは行かなくても、自分の言葉として人目に触れる形で残しておきたいものがあると思ったからブログを書いてみようなどと思ったわけです。
たいしたことを書いていると自惚れるつもりはなかったのだけど、安否確認としてもっとお手軽なサービスが出来てしまうと、自分が発信する欲求だと思っていたものは「はらへった」と同じくらいの意味だったのだなぁと再認識させられる便利な今。
そんなわけで、Twitterでてきとーにつぶやいているとネットに足跡を残した気になるので考える気力すら蝕まれている気分の今日この頃でございます。
Twitter周りでも揉め事は耐えないようでして、「見たいものだけを見ることができる」ネット時代の視野狭窄の行く末や如何に!という傍観者気分を満喫中。
 
所感としましては、テクノロジーがなんぼ進歩しても事象を興し、変え得るのは個人と個人のコミュニケーションであるという、いかんともしがたい事実が浮かび上がってくるのが科学の成果なのかなと斜め読み。
 
とりあえず、生きてるって言いたいだけです。

使い古された議題

更新が滞っていたのは主に腰痛のせいです。どうも俺は歩かないと頭の血の巡りが極端に悪くなるらしい。
 
少し前に話題になっていた対談で、「ネットの匿名性」をテーマにしたものがあった気がしたのだけど、対談中では話が逸れまくりで、それを扱った記事の中でも本来のテーマについて触れているものを目にしなかったので少々気になっていたのだ。手垢のついたテーマという気がするので、実際共通の話題があれば何でも良かった節はあるけど、この議論って昔から平行線でオチが付いた試しがないよね?
というわけで、別にここで結論を出そうとか言うわけではないのだけど、思うところを書いてみる。
ネットをどうこういう以前に、通信においては相手の識別というのは死活的に重要な問題なわけなんだけど、ネットが単なる通信手段ではなくコミュニケーションンフラとして利用されていると言うところがポイントではないかな。
現状でもネット上での窓口利用的な手続きはそれなりの認証手段で識別するような仕組みを作っているよね。これは識別が必要だからそうしてるわけで、これはオンライン上でオフラインにおけるコミュニケーションを代行しているに過ぎない。
匿名によるコミュニケーションと言うのはネットが可能にした新しいコミュニケーション手法であって、「見せたいだけを見せ、見たいものだけを見る」という人の欲求を満たす仕組みとして機能しているわけですよ。
そのための「場」として提供されたのが2ちゃんねるだったりするのですが、匿名否定論者のお話を聞いていると、どうもネットが匿名コミュニケーションをを可能にするものという概念が把握できてない場合が多い気がする。
ネットがどういうものなのか、ネットとはなんなのか。
そういう抽象的な共通認識が形成されるまで論争はなくならないんだろうなぁ。
あと、「見せたいだけを見せる」のがネット以前は権力装置の機能だったので既得権者が否定している場合もあるけどねw
 
おっと、ネット=匿名ではないな。でもネットという仕組みはデジタル通信を基盤としているが故に、現実よりも遥かに簡単に(心理学的な意味での)ペルソナを使い分けることが出来るので、原理的に匿名性を内包してると言って良いと思う。
#名前考えるのって楽しいよね 
 
おまけで対談の感想も一言。
モノの本来の形を捉えて上手く活かすことは理にかなっていると思うのだけど、本質を見ずに既成概念で押し通そうとすると余計な苦労を強いられて大変だなぁ。と。
水は流れるに任せよってね。

プレイヤーとオーディエンス

 お仕事が落ち着いてようやく下らないことを考える余裕ができた。
 本業に忙殺される日々の中で時折耳に入るニュースは「どうしてこうなった?」と思わせるようなことばっかりで、多くの国民が生活の心配をせざるを得ないのも無理からぬことだなぁとぼんやり感じていた。
 もともとテレビは見ない方だし、新聞記事も出資者の意向を考慮した上でないと情報源として吟味するに値しないというスタンスなのだけど、マスメディアの役に立たなさと言うか、この期に及んでの足の引っ張り具合には辟易する。
 もともと、マスメディアと言うのは、オーディエンスとしての読者なり視聴者を前提として存在する。用語だと「一般大衆」であり、「庶民」である。民主主義というシステムにおいて、少数のプレイヤーにより大多数のオーディエンスを制御するための装置として力を発揮してきたのがマスメディア(自称マスコミ)だった。少なくとも、放送という一方通行の伝達技術が全盛を極めた時期においてはプレイヤーとオーディエンスは、とりわけ技術的な障壁によって明確に区分されていた。
 状況を変えたのはネットワークという通信技術で、それまでマスメディアが独占してきた様々な表現手法が安価に双方向で利用可能になった。(ネットワーク化の前にデジタルメディアの進化という前段階があるけど省略)
 この状況においてプレイヤーとオーディエンスを明確に規定する方法は主体の行為に拠る事になった。つまり、発信するものがプレイヤーということである。プレイヤーであることが既得権であった人々にとってこの状況の変化は面白くないを通り越して致命的だ。彼等は、オーディエンスであることに安寧したい人々を一人でも多く引き止めることに躍起になっている。末期に至っては「プレイヤーでない」という特権があるかのように振舞うだろう。
 私達は今現在プレイヤーで無いとしても、オーディエンスとして一生を終えることはありえない。遅くとも死の瞬間にはそのことに気づくだろう。
 誰もが「プレイヤーたり得る」という心構えで生きることは、楽しい将来につながると思うのだけど、意外と皆さん子供だましに興じることがお好きなようだ。